その数日後、四組の教室にて



 数日後の昼休み。音哉は四組の教室の前に立っていた。奏斗がいる二組にはよく行くが、それ以外の教室には必要がない限り足を踏み入れたことはなく、なんとなく緊張する。適当にクラスメイトを捕まえてそいつに呼んできてもらおうか、とも考えたが、手短に終わるような話ではなさそうなので、やはり行くしかない。意を決して音哉は四組の教室へ足を踏み入れた。

 昼休みに他のクラスの生徒が出入りするのは珍しいことではなく、音哉が四組の教室に入っても、一部の女子を除いて気にする者はいなかった。合歓木くんだ、という女子の黄色い声は昼休みの騒がしさにのまれて音哉の耳には届かなかった。

 人と机の間を縫って真っ直ぐある人物の元へ向かっていると、音哉の存在に気付いたその人物はノートから顔を上げた。

 お目当ての人物の机の前までやってきて、目を閉じて小さく深呼吸をひとつ。目を開けると、年齢の割に幼い印象を受ける常盤色の右目が、不思議そうにこちらを見上げていた。

 「茅ヶ崎。相談があるんだけど、今ちょっといいか」
 「ぼくに相談? 合歓木くんが? ……いいけど」

 緊張して早口になってしまった音哉に対し、弾は落ち着いていた。ゆるりと口角を持ち上げて、音哉の話の続きを待つ。

 音哉が弾に相談したいことは、数日前に鳴海と話していた奏斗の誕生日の件。弾のところへ来たということは、自分ではこれ以上はどうにもできそうになく、やはり限界だったから。それほど面識のある相手ではないし、弾が引き受けてくれるとは限らないが、どうしても曲のプレゼントがしたくてダメ元で頼んでみようと勇気を出してやってきた。

 「茅ヶ崎って、編曲できるって話を前に聞いたんだけど」
 「できるよ。相談ってそのこと? ぼくに編曲してほしい曲があるの?」
 「できるんだったら頼みたい」
 「どれ?」

 持ってきた楽譜を弾に手渡す。よれよれで変な折り目がついていたりするのは、音哉が中学生の時に選択音楽の授業で使っていたものだから。

 音哉から手渡された楽譜を一通り最後まで見て、弾はおもむろに顔を上げる。無理、といった表情ではなかった。

 「これをどう編曲すればいいの? 金管アンサンブル? バリチュー?」
 「実は、もうすぐ奏斗の誕生日なんだけど、これを俺らで演奏したくて。だから、どうっていうか、その……」
 「なるほどね。チューバ、ユーフォ、鍵盤打楽器を編成に組み込んで編曲すればいいってことでしょ?」

 意外に話が早くて、音哉は返事も忘れて目を見開く。そんな音哉を見て、弾はくすりと笑う。

 「でも、その三つだけでできないこともないんだろうけど、音が薄いと思うんだよね。その三つだけじゃないとダメ?」
 「いや……。ダメっていうか、そもそも俺そういうのよく分かんなくて。チューバとユーフォと鍵盤さえ最低限入ってれば、あとはまかせたいっていうか……。他力本願で申し訳ないんだけど」
 「じゃあ、サックス入れてもいいってこと?」
 「……協力してくれるなら、お願いしたい」

 もともとチューバとユーフォと鍵盤打楽器だけでは音が薄いだろうなと、鳴海とも話していた。だからできれば誰かに協力してほしいとも。サックスを入れたらまとまるのではないか、という鳴海の意見は正しかったらしい。

 「あ、でも、誕生日、二月二日なんだ」
 「二月二日? ……あんまり時間はないんだね」
 「悪い。アンコンの練習もあるし、無理だったら断ってもいい」
 「ううん、大丈夫。アレンジは好きだし、ぼくでよかったら演奏も協力させてよ。そのためにわざわざぼくを訪ねてきてくれたんだしね」
 「……ありがとう」

 同じ二年、同じ吹奏楽部といえど、ほとんど面識のない相手なのに、いきなり頼みごとなんて図々しいのは分かっていたし、今はアンサンブルコンテストに向けての練習もあるから、断られると思っていたら快く協力してくれて、音哉は込み上げる興奮を必死で抑える。

 「あ、でも、ひとつだけ条件があるんだけど、それさえよければ編曲してあげるよ」
 「条件?」
 「ぼくの編曲に文句言わないでね。それだけ」
 「……やってくれるだけでありがたいから、そんなことはしない」

 どんなことを言われるのだろうかととっさに身構えたら、そんなことだった。
 もともと文句を言うつもりなどなかった。自分にはできないことを頼んでいるし、条件も厳しい。協力してくれるだけで嬉しいし、心強い。

 「ああ、でも、もし要望があるんだったら今日中にメールくれればできるだけ叶えてあげる。時間もあんまりないし、今週中には終わらせるから今日中によろしくね」
 「……ほんとにありがとう」
 「どういたしまして」
 「あとで何かお礼させてくれ」
 「いいよ、気を遣わなくて」

 何度もお礼を言って音哉が立ち去った後に、弾は手渡された楽譜に目を落として小さく息を吐いた。

 本音を言うと、ほとんど面識のない人間から頼みごとをされるのはあまり好きではなかった。何か報酬でももらえるのであれば考えるが、ほとんどの場合が何ももらえないからだ。
 気を遣わなくていいと言ったとはいえ、真に受けなければ何かしら小さなお礼はくれそうだが、なぜ引き受けてしまったのか、頬杖をついて考えてみる。できる限り人には恩を売っておこうというずる賢い考えの持ち主だからという理由が大きいが、アレンジをするのは趣味の範囲で好きなのも事実。それに、音哉とは同い年で部活が一緒というだけでほとんど面識がない相手にも関わらず自分を頼ってきてくれたことは嬉しかったし、自分も演奏に関わらせてもらえるというのも弾にとっては食いつかざるを得ない条件だった。

 授業中、教師の目を盗んでこっそり楽譜を眺めながら頭の中で構想を練るくらいには、なんだかんだで弾も楽しんでいるらしかった。



← Prev Next →